白い花が揺れている、
風に運ばれて甘い蜜の香りが細く淡く流れる、
水と土と緑の香り。

セレニアの花が咲き誇る草原、タタル渓谷。汚れを知らない真白の谷。


始まる。【始まった。】


罪と赦しと、大いなる哀しみと仄かな幸せ、
多くの犠牲と釣り合わない救いとを孕んだ、崩壊した歴史を刻む物語が今、
此処から始まる。




***




彼女は生まれた。意味も無く生まれた。意味があったのは生まれるまでだ。
同じ場所に宿った片割れを大切に大切に、己の小さい腕で抱いていた。これは世界の何よりも己に近しいモノだから。
愛していた。慈しんで愛しんで、楽しみにしていた。
共に世界に誕生することを。
同じ世界で同じ空気で呼吸することを。
同じ互いを、
同じ瞳に写し、
同じ鼓動を通わせて、
同じ身体で触れ合うことを。

だが、何故だろう。産み落とされて真っ先に触れようとした片割れは引き離され、
互いは冷たく分厚い壁で遮られた。なんてことをするのだ。これではアレの声が聞こえない。
離れていく温もりが悲しくて哀しくて、力の限り、声を尽くして泣き喚いた。
それでも手は届かないと、どこかそれを分かっていた。それは自分が、女として生まれたからか。



胎の中でのことは日に日に遠く薄い記憶になっていく。当然だ。普通は覚えてさえいないものらしい。(でもそれでは誰が親か分からなくて困るだろうに)
ただ一つだけ。今でも鮮明に覚えていること。どうやら自分の半身の名前は産まれる前から決まっていたらしかった。

“ルーク”

それが彼の名前。胸の裡で何度も優しく唱え続けた、愛しい名前。
“聖なる焔の光り”
きれいな名前。性は『ファブレ』、紅い髪、緑の瞳。
そして私の名は、ない。



***



自分は棄てられたのだ。
それを理解したのは暗く冷たい箱に詰められたときだった。
世界の流れに盲目的な大人たちは、これも世界の流れに則って、たやすく彼女を廃棄した。

何も知らない。無垢で純粋。それは人間の美徳ではあっただろうが―――産み落とされて間もない稚児が、庇護無く生きるには致命的であった。
何も知ろうとしなかったわけではない。無知は誤り(罪悪)の原点に存在するもので、彼女はそれを理屈でなく分かっていた。だが彼女には絶対的に、時間と経験が足りなかった。
彼女は闇に堕とされた。

彼女は自分の生まれた意味を知らない、生きる意味を知らない、死ぬ意味を知らなかった。
虚ろ。
何も無い、空っぽ。それは彼女の―――【虚無】、生まれてすぐに背負わされた【闇】。すべてが虚ろに思えた。彼女の世界は冥かった。ぼんやりと感じ取れる外界は温かみのかけらも無くて。冷えた肌はそれよりも冷たい石の床と金属の檻で死体のように固まった。役立たずの目で見えるのは僅かな希望めいた、だがそれゆえに虚無を患う、光。――――目を綴じられた。激烈な痛み。微かな希望も見えなくなった。



だから、彼女は自分で自分に意味を定めたのだ。本能であったかもしれない。ソレが有り触れていても、他人には理解されなくとも、たとえ常軌を逸した意志であったとしても、生きるには必要なものだったから。

果たしてそれは正解であっただろう。意志、言い換えれば自らに下した命令は彼女をこの上なく動かしたのだから。
そしてそれこそが、彼女が彼女として確立した瞬間であった。




自律人形(Autonamic Pygmalion)
オートナミック ピグマリオ