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いい天気だ。 不意にそう思ってしまうほど、まるで本物の空を見上げながら森の中にいるような、精巧な世界。 昼の月の光が注ぐ、緑が溢れるここはコノエの居城である。城と呼ばれる悪魔の巣は、別に切り出した石垣が積んであったり土を掘った穴蔵の中にあったりするわけではない。 世界の次元の隙間に、悪魔が己に居心地よく整えた空間のことである。 知識の悪魔は基がリビカであったためか、柔らかな自然を好んだ。悪魔らしからず闇を嫌うわけでもなく、昼があり夜があり、風が梢を揺らし、獣が遊回するのを好んだ。 ただ、その世界にリビカは存在していない。無意識かもしれないそれを指摘したことはないが、指摘してもおそらく淡々と返すのだ。「猫も欲しいか?」と。要らないから、指摘することに意味はない。 コノエの力で心地良く保たれている空間は、彼が悪魔であることを全く感じさせない。他の悪魔の領域に入ったことはないが、コノエの力を常に感じられるこの空間より安らぐ場所はないだろう。己も猫だったからだろうか。此処はとても安らぐのだ。 他の悪魔の城がどんなものかは知らないが、此処以上の場所はないだろう。だって此処はコノエの城で、彼は己の主人であり、絶対の王であり、生きる理由であり、唯一愛しい存在なのだから。 俺はコノエのものであることが誇りなのだ。優しいコノエが大好きだ。 花が好きだと言ったこともないのに、住み処から半里ほど離れた場所には、花畑がある。コノエは目が見えないから、この空間にある色付くものは俺のためということになる。まだ仔猫であった頃に、吉良から逃げ出しては遊んでいた花畑にとても似ていた。母と己とカガリしか知らない場所。何故コノエが知っているのかは分からないが、下僕に対する心遣いが泣きそうに嬉しい。乏しい知識でもおよそ悪魔らしくないとは思うが、コノエはコノエなのだから、それなら悪魔のほうが変なのだろう。 あの悲哀の悪魔もコノエの周りをうろうろしてはじろじろと見てきて欝陶しい。コノエの綺麗な世界で辛気臭い顔をするな。コノエは仲良くしろと言うが俺はコノエ以外はどうでもいいのだ。親も親代わりのカガリも要らない。己の裡にある闇はとても怖かった、恐ろしかった。闇から怪物がいつ腹を食い破って外に出て来るのか、いつか出て来る怪物が外の世界で何をするのか、俺はとても怖かった。助けてくれたのはコノエだった。コノエだけが手を差し延べてくれた。俺を俺でいさせてくれた。俺は親も親代わりのカガリも要らない。ずっとコノエの傍にいたい。 「アサト、おいで。」 優しい声が俺を呼ぶ。 コノエは綺麗だ。 「何かあったか?」 「いや、お茶を煎れたんだ。飲まないか?」 コノエの言葉に逆らえるわけがない。よっぽどそう言おうかと思った。それは主人と従僕や、悪魔とそれによる眷属とか、そういった力関係に基づくものでない。ただコノエに反する事象が許せないのだ。自分の意思が彼に添わないことなど以っての外。この身体も意思も、コノエのものであるのだから、きれいなコノエに使われる俺はとても幸福なのだと確信している。 目が見えないとは思えない滑らかな動きで、コノエは薄い陶器で出来た茶器をテーブルに用意した。知識の眷属になってから学んだことはとても多い。この茶器はニンゲンがミヤビというものを追求したもので、茶などを飲むのに好んで使っていたそうだ。まだ未熟な自分には膨大な知識のほんの欠片の、その表層しか理解が出来ない。ミヤビというのがニンゲンの概念的な考えだと解っていても、どうするものかが解らない。 「…うん、アサトには青が似合う、ね。」 「………それは、俺は悲哀の悪魔に近いということか?」 青い陶磁器を渡されて、情けなさそうに頬を歪める(気配で分かる)アサトにコノエは苦笑した。 「アサトは、カルツが苦手みたいだね。」 親子なのに………とは口に出さない。この黒い悪魔は、自分に頑張って話しかけようとする悲哀の悪魔を殊更に嫌っているのだ。嫌いというよりは、会いたくない話したくない目を合わせたくない見たくない関わりたくない、といったところだろう。カルツもそれを知っている。だがそれでも互いに無関心で居られないのだ、この親子は。アサトは情が篤くて、その実冷酷で(冷静ではない)、コノエに関してはかなり激しい。とても情熱的で他の悪魔たちにとっては格好の見世物だ。 「あいつ、嫌いだ。」 「…アサトは、優しい、から。悲哀を引き寄せやすい。カルツも情が深すぎたから、悲哀の闇を呼び寄せた。欲を出すでもなく、怒りに猛るのでもなく、ただ哀しんだ。」 「……コノエ、」 「やっぱり親子、だね。二人とも優しい、悪魔なのに。」 「コノエのほうが優しい。」 「俺は優しくないよ、理屈っぽい、知識の悪魔だから。」 「コノエは優しい。」 ただ優しいと繰り返すアサト。戸惑うコノエの手を取って、手の平に頬を摺り寄せてくる。視界の利かないコノエにアサトはよく触る。舐めたり、甘く齧る。それは性的な意味を孕まない、コノエに自分を認識させようと、無意識に必死なのだ。幼い頃、息を絶やそうとしていたアサトがコノエに拾われてから、コノエはアサトの絶対になったのだ。 絶対零度の怒りと、 星火燎原の悲しみと。 領解に至るコノエは、世界に与える影響ゆえに滅多に感情を放出することがないだけに、一度キレたら恐ろしい。 怒りは冷たく、悲しみは焦げ付く。 |