その場に現れたのは――――――
在るのが当然と言わんばかりに、その男はそこにいた。墨染めの着流しに、黒い蓮が捺された白木の高下駄。薄紅の鼻緒が白い足の甲の上で奇妙に浮いて目を引いた。肩に羽織った白い上掛けの着物は男を中心に廻る黒い風に煽られてばたばたと強い音を立てていた。背なまで伸びた黒髪を荒ぶる風の薙ぐままに佇む姿。集結した死神たちの幾人かが、圧されるように後ずさった。気圧されたのだ。護廷の頂、象徴とも言える彼らが。痩躯の、青年のごとき男一人に。
「な、ぜ……」
掻き消されそうに小さい声。驚愕に見開いた目をその男に据えて浮竹は呟いた。やがて動揺を脱し、大声で怒鳴り付ける。
「なぜ、貴方が此処にいる!危険だ、早く離れて――――!」
「大丈夫だよ、浮竹くん」
涼やかな声が遮った。隊長格の中でも京楽と共に長老の域に入る浮竹を、まるで年下の友人のように呼ぶ。声は柔らかく張りがあるのに、落ち着いた口調はどこか、年月を経た巨木のように老成したものが感じ取れた。見た目と実年齢が一致し難い死神には有り得ることであろうが、刀さえ佩いていない飾り気に乏しい姿に、どうしようもなく存在感を感じるのは何故だろうか。或いは、目を疑わせるような美貌がそうさせるのか。
「でもねぇ、今ホントに危ないんだよ?タスクちゃんには来てほしくなかったなァ……」
つい、と網笠を上げて眉尻を下げて見せる京楽にタスクはやれやれと息を付いた。親父くさい仕草が妙に堂に入っているのがおもしろい。
「おや春水くん、えらくボロボロだね。浮竹くんと莫迦でもやって、また重國に叱られたのか。」
甘やかな口調ながらの辛辣な言葉。
着物には焦げ痕、顔には煤のこびりついた二人をやゆする。普段の粋な伊達っぷりが見る影もない京楽と、優等生めいて年期の入った穏やかさを剥ぎ取られた浮竹は、共に気まずそうに視線を交わす。
「ところで父様、いったい何をなさりに来たのじゃ?」
「そうです父上!この変態眼鏡がまたろくでもないことをっ!」
「ああ夜一、砕蜂、久しぶり。相も変わらず綺麗だね。」
会えて嬉しいと囁くように言われて二人は息を詰めてほんのりと頬を染めた。この生娘のような反応をする二人は実のところ、護廷で最も情け容赦無しと謳われる女傑であった。事情を知らない者は口をわななかせて目を剥くし、事情を知る者は相変わらずかと微笑んだり白けたり。
タスクはそんな周囲を歯牙にもかけない。気付いていないだけというのも十分有り得る。彼は昔から己のことに疎かった。


「俺は息子を叱りに来ただけだからね。すぐに隠居に戻る。」
「……あやつだけが兄の息子ではあるまい。」
「そうやで父さーん!ボクもおるっ!」
「君達、僕と僕の父さんとの親子の会話を邪魔しないでくれるかな。」
いつの間にか前髪を下ろして眼鏡(スペア)をかけ直した藍染。満身創痍の無表情で拗ねる白哉と手を大きくパタパタ振りながら喚く市丸。それらをきれいにスルーして、未だ成長途中を抜けたばかりの青年の姿をした男は、旅禍の少年へと視線を向けた。痛ましそうに眉を顰める。
一護は反応に困っていた。確か先刻まで闘っていて、自分の腹をあわやちぎれるところまで裂いたのは藍染で、その藍染はこの突然現れた男を父さんと呼んではいなかったか。男自身も息子を叱るとか言っていた気がする、ああちくしょう血が足りねぇ、頭が回らない、卍解の連発で霊力も枯渇寸前だ。死にそう。
「……………ン、だ…?」
茫洋と移ろう視線が突如焦点を結んだ。ちょうど目の前、顔のすぐ横に白い板が現れたのだ。直後黒い布と白い肌が目に写って、それで何となしにアァあの男だ、とわかった。
「やっやめて!黒崎くんに何するの!」
「貴方は何者だ……っ、黒崎に近づくな!」
あまりに忽然と傍に来た男に井上と石田が何かを叫んでいたが、働かない頭にそれは届かなかった。井上の能力は傷は塞ぐが、失った血は戻らない。
「悪いようにはしない……とりあえず息子がつけた傷を塞ごう。」
間近で聞こえた声に、動かない頚を必死に持ち上げてその顔を睨み上げようと思ったが、頭の下に柔らかい感触を感じて一護は思わず力を抜いた。状況は分からないが、悪くはない。
「酷いことをする……」
男は一護を仰向けにして、その頭を己の膝に乗せたのだ。面白くなさそうに見ている藍染をちらと睨んで、そっと傷に触れた。骨張ってはいるがそれでもなお優美に白い指先が、溢れる鮮血に濡れていく。白い指に絡んで流れる赤い血が、妙に淫靡で、傍で見ている井上の方が狼狽した。こんなにきれいなものが汚れてしまうことが、なんだかとてもいけないことのように思えて、急いで拭こうと手を伸ばすが目で制されて息を呑む。捉らえられたと感じた。触られてもいないのに。
大きい。深い。強い。
――――――きれい。かなわない。
翠に月色の燐光が漂う瞳。まともに出会ってしまった視線は、その格の違う造形美にいたたまれなくて早く伏せて仕舞いたいのに、飲み込まれるような強さに、汚い部分まで見透かされそうな深さに、許容する大きさに、――――外せない。
きっと数秒もなかった。織姫の背を伝う汗がぐっしょりと死覇装を濡らす頃、男はふ……と笑った。その視線が外されて、一護へと戻される。この人を止めなければと思うのに、咽はひりついたように掠れ、身体は神経から切り離されたように重かった。
「おや…………君がここまで傷を塞いでくれたんだね?……ありがとう、いい能力だ。俺も頑張るとしよう。」
そう言うとその人は、掌を一護の腹に翳した。男の体に絡み付いていた黒い風が、集束して渦を成す。渦巻きながらもゆるりとしたそれは、旅禍の少年の身体、切り裂かれた部分を中心に纏わり付き、やがて時間が逆戻ったかのような完璧な姿態を曝した。
ふっ…と闇が掻き消える瞬間、ほんのひとこま。薄く開いた一護の目が、白を黒く塗り潰して薄く笑んでいたことに気付いた者は果たしていたのか。ただ、タスクが僅かに眉を上げたが、それについて何かを口にすることはなかった。








いつも柔らかく笑んでいた双眸は、今や触れれば切れそうなほどに細く鋭く冷たく熱く。怒り、悲しみ。戸惑い、混乱。入り乱れる感情に噛み締められた唇は、痛々しくも艶めかしい。

「天に在るのを許されるのは鳥と空と、星たちだけだ。―――惣右介。」

初めて、とも言える養い親の苛烈な視線に、藍染はひそかに震えた。歓喜と畏怖と、ただ単純な愛しさと。長く間近で見てきた、タスクの比類無きまでのその強さ。彼が自分を敵、と認識すれば即座に襲い掛かるだろう敗北という事実、そのあまりもの確かさに。笑いが浮かぶほどに、それは絶対。

――――あぁ………やはり父さんは素晴らしい。

出来るならば、今すぐ連れて行きたいけれど。けれど周りが黙っていないだろうし、何より父さんが許さない。この人が一度(ひとたび)その気になってしまったら、自分など赤子を潰すように簡単に堕とされる。完璧に。絶対的に。絶望的に。容赦なく。分かり切った結末だ。けれど彼は、彼女は本気にならない。なるはずがない。そんなことは有り得ない。何故なら、
(貴方は、貴女は、僕を……子供たちを何よりも愛していますからね………。)
微笑んだ。自然と笑みが浮かんだ。
彼が今、自分を、市丸を、東仙を選ぶことはないだろう。ソウルソサエティにも彼の娘と息子はいるのだから。初期段階で殺しておけば良かったと悔やまれる。
彼が自分だけを見ていないことは腹立たしいが、それさえも貴方らしくて愛おしい。

「そこに僕が立つのですよ。……準備が出来たら迎えに来ますね、父さん。」

――――こちら以外の選択肢を無くしてしまえば良いだけの話。
彼だけが僕の上に。
頂に立つに相応しい。
何より強く。何よりも美しく。何より優しく。何よりも―――ただただ愛しい。

鬼、と。
強すぎる故に鬼と罵られ、護廷を去って。
統学院の隅で保健室に押し込められて。それでも違えることのない愛情を均しく子供たちに与え続けた。
優しかった。百を守るために十を犠牲にした彼に、あいつらは責任を迫ったのだ。
下らない。腐った貴族の子弟一人や二人の命ごときで、父さんの価値を測るなど。あの方が身を挺して救った者らは圧力に慄いて、欠けず口を開くことはなかった(そのあまりの愚劣さと浅ましさに市丸と浦原とでひそかに殺してしまったが)。
父さんの心が傷付いて血を流していたのにも気付かない愚か者共。そして心を隠すのに長け過ぎた父さん。優し過ぎた父さん。優しくて強くて、僕に生きる標を示してくれた掛け替えのない至上の人。僕の世界の基軸に在る、神。
天さえも、彼の前には膝を付く。世界の全てが彼を愛する。そして彼も。その全てを愛おしむ。

絶対の玉座を。至尊の位を。世界の全てを。
僕は貴方に捧げます。
だから、どうか、どうか僕だけを。

僕だけを愛して下さい。




貴方だけの僕なのに。
(貴方の博愛が、痛い)

帝の恋慕
(輝夜姫はねだるのに、貴方は貢ぐ機会さえも)








どんな場所にも風景にも、するりと溶け込んでしまうような、そんな自然な人だった。
あまりに世界に近い存在だった。
果敢ない、というわけでもないのに、
いつの間にかいなくなってしまいそうな、
砂のような、水のような、風のような、
つかの間の闇のような、
人の見る夢のような、
死の、ような、
夜のような、
誰にも掴めない人だった。
毒蜜のように甘く人心を惹き、けれど彼自身はどこまでも健全で清廉で、それは却って彼の心に闇を宿した。いや、彼はもともと優しい暗闇であったのだ。けしてまばゆい光ではなかった。煌々と照らし出す光明は人の影をも濃くするものだ。彼は人の清濁を知りながら、その全てを自身の闇で包み込み、許容し、安らがせた。彼の傍では全てが自然で、まるで夜の中にたゆたうような、冷やりとした月を見ながら温(ぬく)い寝床に潜っているような心地良さと安心感があった。まどろむように安らいでいられた。
その容姿も、心そのままに美しかった。夜が染み込んだような髪は柔らかく波打ち、風になびく様は世の女をして羨ましがらせた。貴族の簪を飾る翡翠石のような瞳は叡智に輝き、その類い稀な輝石の深奥から放たれる不思議な金の燐光を凶兆と忌避する輩も少なくはなかったが、多くは美しさを称賛した。獣のごとく縦に裂けた虹彩は優しいながらもどこか猛々しく、その眼差しは強く、比類なく婉麗な顔立ちは硬質な冷たささえあったが、僅かに口許を綻ばすだけで、緩く目で笑うだけで、暖かく穏やかな雰囲気を纏った。歌人は彼を優しい夜だと歌い、絵師は姿も心も紙に起こせぬと次々に筆を投げた。
戦場においても彼は群を抜いていた。戦いを生業とする死神の、彼は護挺で最長老である者としても有名であった。統学院の創立より昔、総隊長の話が出たという噂もあった。しかし貴族の出でなかった彼は四十六室に候補を外され、のちに彼の愛弟子であった山本が三代目総隊長を継いだのだ、と。当時の12番隊は、技術局はなく、むしろ戦闘に特化した隊であった。隊の性質は隊長で決まると謂われている。他の隊に比べて技術者が多く、護挺の研究機関のような要素もあったが、それでも、彼が率い、連れ添う部隊は強かった。薬術を駆使し、情報を集め、連携を取り、武器を振るい、何より仲間を見捨てなかった。戦場で信頼できるのは仲間だけ、と己らの隊長の背中から彼らは学んでいたのだ。
彼の過ごした時間がどれほどか、推し量る術は無く、また彼自身も現世での自分、死神としての己を語ることはほとんどなかった。ただ、戦いの歴史であったのだろうとは知れた。
紛れも無く、彼は最強の漢であり、最高の隊長であったのだ。尊敬、羨望、畏怖、嫉妬、憧憬。神か鬼かと謂われるまでに、伝説的に、彼の存在は強大無比だった。