|
「――――――はい、今日の治療はこれでおしまいです。」 「あ、ありがとうございます先生!!」 「大分良くなってきましたね。これなら今月末には退院出来るでしょう。」 その優しくかけられる言葉に喜びを感じる反面、患者たちは(なんで治るんだよコンチクショウ!)とようやく完治にこじつけた自分の身体に毒づくのだ。 退院するということは、この美しいドクターとの別離を意味するのだから。 「もう……もう、先生には会えないんですか……?」 治療の最終段階に当たって、老若男女が揃って大体同じ言葉を紡ぐ。その涙に潤んだ目元をそっと指で拭いながら、目の前の美貌の医師は優しく、どこまでも純粋な気持ちで声をかけてくれるのだ。 「また身体に不安を覚えたらいつでもいらっしゃって下さいね。俺は治療を望む人のためにここにいるのですから。」 そして最後に必ず握手をするのだ。普段からプラトニックなこの医師は触診をしないので、その身体に僅かにでも触れる機会は一般人にはこの時しかない。 噂ではこの一瞬のためだけに入院する事態を引き起こすものもいるとか……。 ちなみにさる少将と看護婦たちとの結託により、そんな噂話は露も院長の耳には入らない。 彼の治療を受けて退院して行く者たちはその夢のような美貌と神業とも言える技術に改めて認識するのだ。 彼は奇跡。 聖母なのだと。 「ドクター・、お疲れ様でした。今日の業務は終了です。」 夕日の差し込む院長室。その部屋の主の官位にしては、あまりに殺風景だ。端の棚に数々の勲章が飾られていなければ軍人であるかさえわからないだろう。しかしそれでも暖かい色合いで統一された室内は、部屋の主の人柄を表していて居心地よい。 「そうですか。この後は何か入ってましたっけ?」 「ノー・サー、今日は珍しく何も入っておりません。強引な高官方との会食も、そのご令嬢たちの我侭なお誘いもございませんよ。」 副官の辛らつな言い様に苦笑してしまう。しかし良かった。今日は大切な日だから。 こんなに何も無い日は本当に今まで無かったから、たぶんこの有能なソレノィド=ラヴィディーニル副官が調節してくれたんだろう。 自分が今日をどんなに楽しみにしていたか知っているから。 「ありがとうソレ。本当に君は、俺にはもったいない副官です。」 「もったいないお言葉です。」 「君ほど優秀なら、俺の副官などよりもっと良いところに行けるのに。」 「いいえ、私は貴方の下以外で働く気はありません。」 でも、と続ける。 「あなたが望むのでしたら、私は各組織に根を拡げてきますが。」 はちょっと困って首をかしげた。 この有能な男は、いつでも上官を第一に考えてしまいがちだ。 「俺はそんなつもりで言ったのではありませんよ?」 「分かっております。それに、貴方がそんなことをしなくともオスカーシュタイン少将閣下が既にネットワークを拡げております。あの方は、貴方のためならばどんなことでもするでしょうから。」 ソレノィド=ラヴィディーニル中佐とは長い付き合いだ。 ラフェール人の彼は20を過ぎたところで肉体的な成長を止めたため、外見ではよりも年上だ。 緑の軍服に身を包んだ姿は、同姓のから見ても凛々しくてカッコイイ。 色素の薄い彼の種族には珍しい緩やかに波打つ濃い赤毛を無造作にくくり、眼帯に隠されていない隻眼は猛禽のように鋭い金の光を放つ。 オリビエ並みに恵まれた体躯を持つこの精悍な副官と一緒にいると、自分の軍人らしからぬ見た目が悲しくなってくるのだ。 いくら今は軍医をしているとはいえ、前線に赴いて戦った経験もある。 そのときはソレノィド=ラヴィディーニルと出会った。まだ自分が少佐で、彼が自分の隊の一等兵だった頃だ。 生還には絶望的な状況で、とソレノィドは艦を救い、重傷を負ったソレノィドをは救った。 戦いを勝利に導いたことで、共に勲章の授与と一緒に昇進し、少尉になった彼はの副官になることを希望した。 原作に登場していない彼と自分がこれからどうなるのかは分からない。 他人の辿る道は分かっても、自分と他の人間がどう関わっていくのかは分からないのだ。 それでもこれまでの経緯は分かる、というよりも覚えているので、彼がどのような人と為りかは分かっている。 実直で義理に厚いソレノィドは、生涯のそばを離れないだろう。 それがとても嬉しく、同時に少し残念な気持ちもある。 きっと彼は自分の命の借りを返すために、俺に付き従っているのだろうから。 彼のことを戦友だと思っているにはそれが残念でならない。 その暗い思考を綺麗に押し隠し、は微笑んだ。 「あなたもオリビエも過保護なんですよ。俺のほうが年上なのに……」 それを聞いたソレノィドは珍しく少し笑ったようだった。無表情が解けて、外見年齢に相応な笑顔。 「私たちにしてみればこんなことは保護のうちにも入りませんよ。―――ところでサー、お客様が来ているのですが。」 それを聞いては微かに顔を曇らせた。 「お客?今日は来客の予定はないと言ってませんでしたか?」 ソレノィドは相変わらずの無表情で、しかし僅かに目元を和ませて言った。 「急のお客人でしたが私の一存でお通ししました。あなたが喜ぶと思ったので。」 それを聞いてますます分からなくなった。 ソレは今日を俺が楽しみにしていたことを知っているのに。それなのにどうして俺が急の来客を喜べるのか。 の不満と疑問を感じ取ったのか、淡い微笑を浮かべてソレノィドは執務室の扉を開けた。 「兄ちゃん!!」 に向かって弾丸のように飛び込んできた小さい身体を慌てて抱きとめた。 艶々と輝く黒髪に金の虹彩を持つ漆黒の瞳。小説の中の彼のように膝裏までとはいかないまでも髪は長く整えられていて、身長もの胸にすっぽり納まるくらいに小さい。 の親友たちの愛の結晶、遥か遠い惑星の魔王の名を戴いた、ルシファード=オスカーシュタインがそこにいた。 「ル、ルシファード?どうしてここに……」 「兄ちゃんさ、今日ウチ来るんだろ?だからフリーダに頼んで学校の帰りに寄ってもらったんだ!」 絶対の親愛を籠めて見上げてくるその眼を見つめ返す。 金環を戴いた闇夜の瞳と、金の斜陽の差し込む翠の瞳とが至近距離で出会った。 今この場に観客がいたならば、まるで天使たちの戯れのような光景に自分の死を錯覚してしまっていただろう。 だがしかし、実際の観客は無表情の武骨な男が一人だけで、見つめ合っている天使たちは相手の本音を探ろうとしていたのだが。 兄と慕ってくる、自身も弟のように可愛がっているルシファード。 その上目遣いを受けて、蕩けそうになる理性を必死で繋ぎとめていた。 ――――大人の威厳のためにも、その崩壊しそうな表情を表に出すことはなかったが。 (だ、騙されてはなりません俺!!ルシファが来てくれたのは嬉しい!確かに嬉しいですけどっ!でも今日はソレのおかげでかなり早く仕事が終わったんですよ!?) 「…………ルシファード、まだ学校が終わる時間じゃありませんよ?」 「あぁ今日は早く学校が終わる日で……」 「ルシファード」 目線を逸らしながらごまかそうとするルシファードの言葉を遮って強く名前を呼ぶと、びくっと身体を震わせた。 助けを求めるようにソレのほうを見るがスッと目線を逸らされる。 その頬に冷や汗が伝ったのを確かにルシファードは見た。 絶対主義のソレでは役に立たない、それを悟ったルシファードは観念してを見た。 「その様子ではフリーダもいないのでしょう?なら早退でもないでしょうし、何をして逃げて来たのですか?」 「…………」 ルシファードは至近距離で輝くの瞳をじっと見詰めた。 いつ見ても、何度見てもこの眼を見飽きることはない。翠にかかっている金の靄は、雲のように形を変えながら常に動き回る。そしてその動きはの感情に沿う場合が多い。 今のように瞳の中心に靄が集まって虹彩のように見えるのは、困っているときだ。 この人はいつもそうだ。 自分でさえ、良くないことをしたという自覚があるときでも、この人は怒ったことがない。 少なくとも、自分は兄ちゃんの喜怒哀楽のうち、怒の感情だけは見たことがなかった。この人はフリーダが烈火のように怒り狂うような時でも、ただ困ったように笑って諭そうとする。もしくはそっと悲しむ。 俺は兄ちゃんが誰かを怒鳴りつけるところも苛々して声を荒げるところも見たことがない。 O?のように淡々として冷笑的に冷静なのではなくて。他人の行動を受け止めようと常に努力する。 嬉しいことがあれば喜ぶし、患者が死んだといって哀しんで、俺やO?やフリーダといるときはいつでも楽しそうだ。 そのたびに兄ちゃんの眼の靄は一定に変化する。くるくると回ったり、ゆらゆら揺れたり、動きが激しくなったり。 でも怒ることがあるのかどうか。フリーダに聞いてみたら『そんな恐ろしいこと、考えたくもない…』と言われた。どういう意味だろう。フリーダが怒ったほうがずっと怖そうだと言えば恐ろしげな目付きで見られた。フリーダは本気で脅えていた。『いいかルシファ、普段が温厚な奴ほどキレたら恐ろしいんだ。のは格が違う……』オリビエなんてかわいいものだ、と。 ……ルシファードは、子兎のようにぷるぷる震えて、断罪を待つしかなかった。 |